1) History
2) About Our Guitar Labels

十代の頃に初めてギターを手にしたジャン・ラリヴィーは、当時18ドルのギターで「デュアン・エディー」のフレーズを練習していました。特別な音楽教育を受けた経験がなかったジャンは二十歳になったころ、クラシックギターの勉強に真剣に取り組みます。
カナダのトロントで勉強を始めて4年目のある日、ドイツ人のクラシックギタービルダーの「エドガ−・モンク氏」と知り合います。モンクはギターの製作に興味を持ったジャンを自身の店に迎え入れ、そこで師弟関係が始まります。

ジャンはモンクの教えの元で2本のギターを製作し、やがて自分の家にも作業場を設けてギター製作の研究に没頭しました。やがて演奏の練習に費やされていた時間の大半は、ギターの製作に当てられるようになりました。ジャンはこの時、生涯の仕事を見つけたのです。

1968年から1970年までクラシックギターを自宅で製作をしていたジャンは、その後作業場を劇場の二階へと移します。そこでの仕事を通して、トロントのフォーク・ミュージック・コミュニティーの様々な人々と出会います。
ジャンはその人々に頼まれて、1971年に初めてのアコースティックギターを製作しました。

ヨーロッパの伝統的なクラシックギター製作者の手法を継承しながらも、ジャンは「独自のボディ形状」「構造」や「ブレーシングパターン」を取り入れ、研究を重ねました。
特に、当時はまだ不完全な商品が多い事で知られていたアコースティックギターの製作に情熱を注ぎました。
ジャンが製作した初期のアコースティックギターの数々は、X型に延長されたマーチンスタイルのブレーシングパターンと、ブリッジに対して45度に設置されたトーンバーが特徴の小さなドレッドノート・スタイルでした。
しかし、ジャンはクラシックギターの製作で培った経験から「対照的なブレーシングパターンの方がトーンのバランスが良い」と考え、「90度のブレーシングとブリッジに対して平行なトーンバー」を採用してみました。
結果、そのギターの音は力強く、バランスのある音に仕上がりました。「無知から生まれた成功だった」とジャンは当時を振り返ります。そして25年経った今でも、このブレーシングパターンの改良されたバージョンがラリヴィーギターの心臓部であると言えます。
(シンメトリカル・パラボリックXブレーシング)
ソリッドでタイトな広がりのある低音、そしてミッドレンジは力強く、ハイは澄んでいるのが特徴です。全体的にバランスに優れ、ギターそれぞれのボディーサイズや形がそのバランスの軸を決定づける仕様となっています。

25年もの間に製作した2万本以上のギターが、その構造の信頼性の高さを証明しています。例えば「トップ落ち」「トップ浮き」などは伝統的なブレーシングパターンを持つギターによく見られ、特にスキャロップ・ブレーシングを採用したギターではこの問題が顕著です。
しかしラリヴィー手法のブレーシングパターンでは、この問題はほとんど存在しません。

1971年から1977年の間、ラリヴィーギターは順調に成長し、さらに大きな工場を求めて4回移転しました。そこでは数々の師弟関係が生まれ、中には独立して成功を手にしたビルダーも多く存在します。1972年にジャンは、「ウェンディー・ジョーンズ」と出会い人生を共にする決意をしました。妻であるウェンディ−は、ラリヴィーギターの特徴である美しいインレイを描き、彫刻を手がけています。

1976年には、8人の職人が月30本のペースでギターを製作していました。
これらのギターの大部分はカナダで販売されるか、クラシックなデザインが好まれるイギリスへと輸出されました。当時のアメリカの市場を打ち破るのはとても困難でした。
ラリヴィーギターの特徴である「ウッドバインディング」「精巧に細工されたロゼット」「クリアーピックガード」「ヨーロッパ・ルネッサンスな雰囲気漂うインレイデザイン」は、当時のアメリカの流行に対してズレていました。しかし、明るい兆がなかったわけではありません。
数名の著名なアーティストがギターを購入することによって、ラリヴィーの噂は広まりました。アメリカのミュージシャンがカナダのトロントへラリヴィーギターを探しに行くようになることで、一部のアメリカのディーラーは在庫を持ち始めました。

1977年、ジャンとウェンディ−は「ブリティッシュ・コロンビア州:ヴィクトリア」に移住を決意します。カナダ環太平洋沿いの湿度の高い森林でとれる上質なスプルースとセダーが、ジャンにとっては成功のカギでした。当然、ブリティッシュ・コロンビアのカナダ特有の心地良いと景色にも魅了されたのは言うまでもありません。

ヴィクトリアに工場を移転してからジャンは、ギターを大量生産するのに障害となる様々な課題へ取り組みます。それまでの賃貸物件と違い、始めての自社工場を購入することで、湿度や温度管理をするための工房と本格的な塗装ブースの設置が可能になりました。
さらにジャンは特殊な工具や機械を開発することで、クオリティーを落とすことなくハイレベルで精密なギターの大量生産に成功しました。
移転してから一年以内に、14人の職人が一日に4本のギターを製作していました。

会社がヴィクトリアで順調に繁栄する反面、島で営業を続ける事が困難になってしまいます。そこで1982年にジャンは、本土への移転を決意します。
当時はキーボードやエレキギター等の電子楽器が主流となっていたために、アコースティックギターにとっては難しい時代でした。その中で、生産を削減し社員をリストラするよりジャンは時代に融合していく手段を選択します。
1983年にラリヴィーは、一時ソリッドボディーのエレキギターの生産を始めました。

1989年、再びアコースティックギターが復活の兆しを見せました。
ジャンは、再び原点であるアコースティックギターの製作に集中します。エレキギターの製作で培った技術をアコースティックギターの製作に活かし、改良を重ねます。
その中で斬新な工具も開発され、コンピューターによってコントロールされているNCマシンも導入されことで、いくつかの新しいモデルが誕生しました。

1991年には、アコースティックギターの市場が完全に復活し、ラリヴィーもさらに大きなビルへ移転します。当初、300坪は十分なスペースと思われていましたが(当時は35人で1日25本のギターを製作していました)、やがて頭打ちになってしまいます。

1997年にラリヴィーはD-03を発表します。当初は1000本限定だったこのモデルは、「800ドル以下でオール単版のギターが買える」という事で話題となりました。
ほどなく需要があまりにも多かった事から、スタンダードモデルになりました。

1998年の3月、ヴァンクーバーの中心に位置する920坪の施設へ再び移転を決意します。ここでは100人の優秀なクラフトマンが1日60―72本のギターを製作していました。
そのギターの多くの出荷先が、ラリヴィーにとって一番大きなクライアントでした。

そして2001年9月にラリヴィーはさらに拡大を目指し、カリフォルニアの新しい工場に移転します。しかしその10日後に、あの「9.11」の事件がありました。
事業を拡大するには間違った時期だったことは明らかです。この不幸な出来事からの二年は、ギター業界にとっては本当に苦しい時代でした。大手のギターメーカーがリストラを余儀なくされ、ラリヴィーも例外ではありませんでした。これにより、ギターの生産本数は一日35本に低下します。
それからの二年、ラリヴィーは「ハイエンド・ライナップの見直し」「03シリーズの一新」に加え、「トラディッショナルシリーズの開発」などの方向転換を図ります。

そして今日、ジャン、ウェンディ、そして息子マシュ−と娘クリスティーンはカリフォルニアの工場でグロス・フィニッシュのギターの製作を続けています。
そしてジャンのもう一人の息子であるジャンJrはカナダにある工場で、サテン・フィニッシュのギターを製作しています。

数々の移転を繰り返す中、私共の会社は成長を続けました。そしてその成長と共に、最先端の技術と新しいNC二台を含む合計八台のNCとレーザーカッターを導入しました。
作業効率とクオリティーが向上することで、ラリヴィーギターのお客様と全てのプレイヤーに素晴らしいギターの提供が可能になっています。